H県N市華高村
年末年始の休みを利用し、久しぶりに北へと足を伸ばした。
寒い時期はやはり雪を見たくなる。
枕草子にもあるように、やはり雪の降り積もる様を眺めることが楽しいと思う。
そんな思いから、H県N市華高村へと赴いた。
昨年頭から続くコロナ禍で旅行も制限されることが多く、商業施設、宿泊施設、観光業者は大きく打撃を受けている。
感染者数の増加と人々の移動の相関が見られることからも、世間から目の敵にされていることは皆さんも承知のことだろう。
一旅行好きとしては、そのような状況は耐えられるものではない。
コロナが治まったとして、その後の旅行先が軒並み潰れているようでは楽しむものも楽しめない。
そんな思いから、リスクを最大限避けられるように対策をし、この度の旅行に挑んだ。
華高村はご存知の方も多いだろうが、北日本有数の温泉地として知られている。
山間の奥まったアクセスの悪い地域にも関わらず、古来より訪れる客が絶えなかったそうだ。
今回私が泊まらせてもらった華高村の山別荘にも記録に残っている。
江戸からはもちろん、京都から公家も訪れていたようだ。さすがは創業400年だ。
この山別荘にはこんな逸話も残っている。
明治の文豪、郷童子兼清は毎年夏にこの旅館に篭って執筆をしていたそうだ。
東北の山間部の為避暑にはもってこいの地であるが、やはり東京からのアクセスは悪い。
そんなに無理してくるには理由があり、出版社の担当編集から隠れるためだったようだ。
筆が遅いため、東京ではいつも締切に追われる生活を送っていたが、さすがの編集者もここまでは追ってこない。兼清にとっては心身ともに休まる安息の地であったようだ。
だが、毎年毎年連絡が取れなくなり、さらには締切破りも当然となっていたある年、怒った出版社の人間が同行して締切をせっついてくるようになった。
部屋は隣で日中机に向かっているときは、後ろで正座し待っている。温泉に入りに行くと部屋を出ればお供しますと一緒についてくる。一人の時間が一切取れなくなったのだ。
そうせっつかれるようではいい原稿も仕上げられないと文句を言うと、それは原稿を上げてから言ってくださいと返される始末だ。
たまらなくなった兼清は夕飯の際に厠に行くと言い、こっそり女将に相談しに行った。
すると女将はこの村のお地蔵様にお願いしてみてはどうかと進めてくる。
当時の兼清はあまり信心深い方ではなかったようで、地蔵などに願ってどうなるかと不満だったそうだ。
しかし日1日と過ぎていくうちに、いよいよ辛抱出来なくなり、藁にもすがる気持ちでその地蔵に拝みに行ったそうだ。
夜遅く、編集者が寝ている隙にと宿を抜け出し、教えてもらった地蔵のところへ着いた。
兼清は夕飯で残しておいた鯛の頭をお供えし、編集者が東京へ帰ってくれるよう地蔵にお願いをした。
目を瞑り手を合わせていると、何やら変な気配がする。不思議と嫌ではないが人でもないように感じる。少し怖くなり目を開けると、もうお供えした鯛の頭がないのだ。
確かに懐から取り出した、そして地蔵の前に置いた。その時の鯛の香りと、まだ少し暖かかったことは覚えていた。何かがあると立ち上がると、何の事は無い一匹の黒い猫が鯛を咥えて森の中へ消えていくのが見えた。
少々馬鹿らしくなり宿へ帰ることにした兼清が、自室へ戻ろうと階段を登っていると、編集者の部屋の襖が閉まるのが見えたそうだ。なんだ編集氏も起きていたのか、厠へでも行っていたのかと抜足差し足で自室へ戻ろうとすると、編集氏の部屋の襖がすこーし開いているのが見えたそう。